Trans Eurasien Expreß seit 2002

 
erscheint i.d.R. vierteljährlich und behandelt bedeutende und/oder interessante Eisenbahnen und sonstige Transportmittel in der Welt, mit Vergleichen zwischen Japan und dem Ausland, Geschichts- und Kulturvergleichen - je nach Thema der Ausgabe. Alle Fotos, Ton- und Videoaufnahmen wurden vom Author selbst aufgenommen, soweit keine fremde Quelle ausdrücklich vermerkt ist.

Mikio Tanaka

 
     
   


 
23.傾国の美城に殉じた白鳥王の宮廷列車

Das Neuschwanstein auf Rädern - Teil 2 von 3

-II ルートヴィッヒと義経:美も運命も時空を超えて-
今回の取材地:
ドイツ
日本 オーストリア 日本


ニュルンベルグのDB博物館の館内を燦然と輝かせるHofwagen

ルートヴィッヒ2世が生きた19世紀後半の欧州は、生活を芸術化し美の形成に最高の価値を置く耽美主義が最も隆盛した時代でもある。ただ彼の場合は 周囲の一切を芸術化しなければ気が済まず、それは たまにしか利用しない鉄道といえども例外ではあり得なかった。1865年 (元治元年、第二次長州征伐が失敗に終わり幕威凋落が誰の目にも明らかになった年だ)、彼はバイエルン王立鉄道 Königlich Bayerische Eisenbahn にテラス車 Terrassenwagen を発注したのを皮切に、1868年 (明治元年) には父王マクシミリアン2世 Maximilian II. が8年前に造ったサロン車 Salonwagen を大改造した。美に妥協できない王は、サロン車の車内を空白を怖れるかのようにバロック装飾で息苦しいまでにびっしりと埋め、車外も負けじと金色の天使の放列を美々しく舞わせ、とどめに屋根中央に巨大な黄金色の王冠を載せてしまった。



他人事ながら価格を想像するのも恐ろしい超芸術的車内。
窓ガラス越しの撮影なので左端の映り込みはご容赦戴きたい。

 上篇でご紹介した DB博物館の HP では、このサロン車を Das Neuschwanstein auf Rädern (直訳すれば「車輪の上にあるノイシュヴァーンシュタイン城」、つまり「走る新白鳥石城」)と表現している。新白鳥石城と同じお伽の国系コンセプトで夢の車両を作ろうとしたのだろうから、これはこのサロン車の本質を適切に形容している。更に、屋根上 に鎮座まします巨大な王冠や車体にちりばめられた王冠の装飾に、彼の王権への誇り が感じられ る。



英エドワード7世用のサロン車(ヨーク・National Railway Museumにて)。車内は小洒落た民家の
応接間程度の落ち着きがあり華美さを押さえている。国民社会化・帝政の終焉と共に王室専用車は
地味になっていく。ヴィクトリア女王用サロン車(写真右奥)は時代が少し古い分もう少し華美だが、
ルートヴィッヒ2世専用車はこれより約30年前のものだった点を割り引いても、桁違いの絢爛豪華さだ。

 絶対王政下には華やかな宮廷列車が世界各地で多く造られたが、ここまで派手やかな車両を他に知らない。世界の王侯貴族の宮廷列車については、「Wie der Kaiser reiste (皇帝は如何に旅したか)(Kosmos社 ・> Paul Dost 著)に詳しい。ルートヴィッヒ2世が生涯唯一愛した女性と取沙汰される従姉のエリザベート(オーストリア皇后)の専用車がウィーン技術博物館に保存されているが、車内*は贅沢ながらも大人の落ち着きがあり、車外*も目立つものではない。浪費への批判を避け、またVIPはVIPであるというだけの理由でテロリストに命を狙われかねないのだから、そのような考慮は当然だろう。

しかしこの思い切り目立つ王冠列車はテロリストに「ここに浪費王あり」と標的を示しながら走り回っているようなもので、客観的に考えれば危険な事この上もない。しかしその辺の感覚のネジが何本か飛んでしまっている王には、批判やテロを警戒して装飾面で妥協するという発想は無かったようだ。1編成のみ製造されたこの宮廷列車は、前出のサロン車・テラス車という将棋でいえば飛車角(いや、王将そのものと言うべきか)の他に、供奉車(ぐぶしゃ)・厨房車各2両、暖房車・荷物車各1両から構成され、通常はミュンヒェン中央駅の車庫に格納留置され、ドイツ革命に伴うバイエルン王国の終焉(1918年)まで車籍を有した。1891~93年にかけて更新工事によりガス灯に交換、との記述があるが、ではそれまでは蝋燭でも使っていたのだろうか。



ルートヴィッヒ2世の在位期間は日本で言えば孝明帝のそれに近い。僅か2世代後の
昭和の新1号御料車(写真左下)の落ち着いたデザインと比べると、時代の流れの速さを実感する。
 編成中、装飾過多でメタボ化した文字通りキングサイズのサロン車のみが4軸で、他は全て2軸客車だ。サロン車は一見ボギー車のようだがそうではなく4軸全てが車体に固定されているので、優雅な外観とは裏腹にカーブや分機器通過時はさぞキーキーと騒々しかったと思われる。この辺り、王が愛してやまなかった白鳥も泳ぐ姿は優美だが水面下では無様にせわしく足掻いている不釣合さに似てなくもない。

客車同様バイエルン流のブロック形装飾が雅やかに描かれている動輪3軸の牽引機はトリスタン号 TRISTAN と命名された。ここでピンと来た人はこの王かヴァークナーのファンだろう。ルキーノ・ヴィスコンティ Luchino Visconti 監督のLudwig(1972年)はルートヴィッヒ2世を描いた名作だ(邦題は「ルードウィヒ/神々の黄昏」)。リンダーホーフ城のせり上がり式テーブル階下の給仕の雑談シーンと終盤の廃王捜索場面での兵の喧騒以外は、監督がイタリア人という以外に何の必然性も無く全編イタリア語、ルートヴィッヒとシシィがプレーゴ、グラッツィエとやりとりしたり、首都ミュンヒェンをモーナコと言ったりする少し尻のむずむずする長編だが、その全編にわたってげっぷが出るほど耽美的だ。前半、王は片想いのエリザベートに、叶わぬ恋に苦しむ王族のカップルを描いたケルト伝説を題材にしたヴァークナーの楽劇 「トリスタンとイゾルデ Tristan und Isolde」 を観て貰う事で、自らの叶わぬ恋の辛さを伝えようとする場面がある。本人が真剣な分だけ阿呆な話だが、劇のトリスタンの方はイゾルデと相思相愛という設定なので、イゾルデに見立てられたエリザベートこそいい迷惑だったろう。




トリスタン号
 王は1865年(テラス車発注の年だ)上演の「トリスタンとイゾルデ」にエリザベートを招待し、隣国の皇后である彼女の臨席の準備に多額の国費を投じたが、ルートヴィッヒが彼女にご執心との噂が広まり衆人注視の中を彼女が来る筈もなかった。更に言うと映画で登場する王の乗る外輪式蒸気船もトリスタン丸だった。当時の王の頭の中はヴァークナーとエリザベートで一杯だったのだろう。


王の寝台車(左)と専用トイレ(右)。現代の庶民用ウォシュレットの方が間違いなく快適だろう。

こうしてみると、この宮廷列車にもリンダーホーフ城同様、お伽の国系の美・王権の誇り・ヴァークナー・エリザベートという、王の心を深く捉えた4要素が凝縮されており、その意味では「走るノイシュヴァンシュタイン城」よりも「走るリンダーホーフ城」の方が、より近そうだ。22で述べたように、ノイシュヴァンシュタイン城 はお伽の国系に強くふったコンセプトであるのに対して、リンダーホーフ城 はこのルートヴィッヒ4点セットが満遍なくブレンドインされているからだ。



トリスタン号の美しいテンダー(炭水車)
 鉄道はしばしば政治とかかわりを持つ。第8話*第11話*第12話*でこの事に少し触れたが、この宮廷列車もその政治的効用を発揮した事があるとされる。1866年に普墺戦争(ドイツ統一の主導権を争う戦いでもあったので、ドイツでは独独戦争 deutsch-deutscher Krieg* という)でオーストリア帝国を盟主とする南軍に属し、強靭なプロイセン軍を主力とする北軍に鎧袖一触されたバイエルン王国の弱体化に乗じて、当時バイエルン王国領だったフランケン地方に独立運動の火の手が上がった。


二軸のテラス車Terrassenwagen。両端がデッキ、中央には四囲をガラスに囲まれた東屋風の客室がある(右下)。

頭痛の種だった王の高価なおもちゃの活用方法を思い付いた政府は、この途方もない宮廷列車を勝利列車 Triumpfzug と称して(負けても勝利と言ってみせるのが政治家だ)ルートヴィッヒ2世を乗せ、威光辺りを払いつつフランケン地方を練り走らせた。庶民車の座席が粗末な木の箱でしかなかった当時、この世のものとも思えぬ華麗な列車に驚愕したフランケンの善良な人々はバイエルン王国の威に打たれ反乱は鎮まった、という。話は明らかに出来過ぎだが、話半分で読んでも、バロックテンコ盛り列車一本で反乱鎮圧に伴う流血や戦費を回避できたのなら安いものだ。

 一方、負けた南軍の盟主・オーストリアにも動揺が起きていたが、こちらはもっと 深刻だった。領内の 多くの東方系少数民族の独立 の動きを最大少数民族だったマジャール(ハンガリー)人貴族と協力して封じ込める為、ハンガリーについては 独立は認めるが外交・軍事は共通政府が保持し皇帝・王は墺・洪兼位とするオーストリア・ハンガリー二重帝国* Österreichisch-Ungarische Monarchie(1867-1918)という、国際公法的分類でいえば物的同君連合という珍しい方式によるアウスグライヒ der Ausgleich (文字通り「妥協」の意)を行った。このアウスグライヒ成立に積極的役割を演じたのは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 Franz Joseph I. の后で ハンガリーを愛したエリザベートだった。しかし民族自立のうねりには抗する事はできず、 ハンガリーはその後完全に独立、以後遂にオーストリアに戻る事はなかった。


ウィーンの司法宮殿Justitzpalast内の最高裁C法廷OGH Verhandlungssaal C
の天井には、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世Franz Joseph I.の美しい紋章
が象徴するオーストリア帝国最後の輝きが張り付いている。

仮にオーストリアにもバイエルン王国のような超芸術的宮廷列車があったとしても、外にあってはロシアやオスマントルコ(こちらはこの頃には衰退して相当大人しくなっていたが)のような 膨張指向国家が 介入の機会を窺い、内にあってはスラブ系 少数民族が独立を求めるという 火薬庫のような地域を抱え込んでいた同国 が、「勝利列車」 で歴史を 変える事ができたとは思えない。それどころか、地雷原のよう な危険 地域に王冠を輝かせた 列車で 乗り込めば テロリストの格好の標的となって いたかもしれない。こう考えるとフランケンは、実にのどかだ 。

 



これ以上派手にはできない天井。

普墺戦争で 鉄道 が果たした役割について 付言する。オーストリア帝国との開戦必至と見たプロイセンは、決戦に備えオーストリア国境近くまで予め鉄道を敷設し、開戦と同時に前線に重装備の大兵力を迅速に展開できた点が、当時ハイテク兵器だった腔綫・後装式大砲(この新式砲は普墺戦争の僅か2年後には早くも日本に輸出され、 鳥羽伏見の戦いで活躍した)の大量配備による圧倒的火力や通信技術等と共に、普墺戦争でのプロシア(北軍)の勝因として指摘されている。

 フランケン懐柔に用いたような芸術列車の現実的効用は勿論フランケンの民の人の善さに駕した偶然の副産物で、音楽家支援も、美城も、お伽列車も、要は王の常軌を逸した美に対する執念の結果以上でも以下でもなかった。この頃ミュンヒェン大学に留学していた森鴎外はルートヴィッヒ2世の困難な人生を「独逸日記」に記し、また後日小説「うたかたの記」の中では彼を悪役として登場させているが、そこでは「狂気」がキーワードになっている。

日常のルーティーンから抜け出たところに非凡な感性をスパークさせ、その火花を美に昇華させる精神活動が芸術だ。つまり、美に昇華結晶させる作業の前工程として、日常的こもごもを一切忘れた非日常的スパークという一種の狂気も必要なのだ。その意味で、ルートヴィッヒ2世にせよ、ヴァークナーにせよ、芸術家や芸術家肌の人にエキセントリックな要素が伴うのは当然だ。故岡本太郎氏が「芸術は、爆発だ!」と叫んで狂ったようにピアノの鍵盤を叩くうちに画面が華やかな彩で覆われていく名CMが昔あったが、芸術の本質を端的に表していると思う。



かつては大阪万博会場を睥睨し、今は逗子の海を静かに
照らす故岡本太郎氏の「若い太陽」のモニュメント

しかし、ルートヴィッヒは王であった。芸術的な夢を派手にスパークさせる事のできる権力と財力(彼自身には芸術的才能はなかったので金で買う必要があった)を有していたと同時に、国の利害に即して合理的に行動する事が、ずっしりと期待されていた。国家の日常活動の配線がスパークだらけでは堪らない。持ち合わせた権力を駆使して夢の実現に邁進する程、あるべき王としての期待に背く度合は増大する。 この「与えられた立場と個人的主題や能力との落差の大きさ」に起因する人生の外し方が、ルートヴィッヒ2世と源義経という日独を代表する悲運の貴公子において非常に似ている点については後述する。

この繊細な芸術王に、現実は容赦なく妥協を迫る。即位早々の強国との戦争、そして敗戦。 ヴァークナーと王とのかかわりを嫌った家臣団の手強い諫言。ルートヴィッヒ2世は遂にヴァークナー追放に追い込まれる。また、王の築城三昧は敗戦で火の車だった国庫を直撃した。唐の玄宗にとって楊貴妃が傾国の美女なら、ルートヴィッヒ2世にとってノイシュヴァンシュタイン他2城は傾国の美「城」といえ、築城強行は猛烈な反発を招き、周囲との軋轢は日常化した。唯一心を許せる相手だったエリザベートすら、少年の心を持つ王に厳しい姿勢を見せ始める。映画中盤、ルートヴィッヒが「トリスタンとイゾルデ」の上演成功を夢中で報告するのを彼女はぴしゃりと遮り、そんな事より一体いくら国費を浪費したのかと嗜めるが、王は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をするばかりでなぜそれがいけない事なのか理解できない。



至る所に王冠がデザインされ、発注者の王家への誇りが感じられる。

彼のように特定の主題にのみ鋭く反応し猪突猛進するが他には関心がないタイプは、自分の主題に 集中するべき 芸術家や学者には 向いているが、多様な利害を調整しなければならない立場に立たされると本人も周囲も不幸になる。悲劇の英雄といわれる人々には、しばしばこの種の落差という共通項がある事に最近気付いた。



源義経が腰越状を書いたと伝わる満福寺(神奈川県
鎌倉市)。凱旋将軍として帰国したつもりの義経は
ここから京に返され、そのまま追討を受ける身となった。

少し時空を超えて脱線する。わが国においてルートヴィッヒ同様後世まで人々に愛され、その袖を濡らし、多くの劇の題材となり、列車名 幌内鉄道・江ノ電・福島交通・JR東日本等 )にまでなっている悲劇の英雄といえば、まず源義経 (1159-1189) だろう。彼は父義朝の仇・平家討滅という主題には激しく反応し、木曾討ち→一の谷→屋島→壇ノ浦と劇的に駒を進め、親の復仇という武門の美を芸術的なまでのパーフェクトゲームで達成した軍事の天才だった。彼が単なる職業軍人なら栄光の人生を送れただろうが、義経の場合 、武家の棟梁の連枝という政治的職責重大な超VIPでありながら、その地位に伴う政治課題にはとんと無関心という落差の大きさが命取りになった。



源頼朝がその青年期を含む20年を流刑地として過ごした蛭が小島
(左)は、妻・政子の実家北条家跡と、北条兵と共に挙兵後最初に襲っ
た山木判官こと平兼隆(政子の許嫁でもあった)館跡(右)のほぼ
中間にあり、その近さに驚かされる(いずれも静岡県伊豆の国市)。

義経の生まれ合わせた12世紀の日本では灌漑技術が進歩し、川から遠く離れた土地も農地化できるようになった。こうなると本州最大の平地が広がる関東平野(当時坂東と呼ばれた)ではその広大な地形を活かして水田の自主開発が急速に進み、関東の実力は人口・経済力両面で著しく上昇した。しかし、崩れつつあったとはいえ律令体制では土地国有が建前だ。有力者の荘園は例外だったが、当時辺境だった東国の 開発地主に荘園の私有が公認される事は困難で、折角荒野を開墾しても対中央の関係では不法占拠とみなされ、それを黙認して貰う為の中央の権門に土地を寄進し自らは管理人に甘んじたり、 無償の兵役や多額の賄賂の負担に、関東は呻吟していた。相続法制も未確立で農地をめぐる相続紛争に起因する合戦が絶えない無法地帯の中の我が一所を守る為大規模農家は武装して命懸けで農地を死守し、今日も残る「一所懸命」の語源になった。制度が錆付き新興勢力の利益を公平に反映できなければ乱の元だ。中世日本の 人口涵養力の最大の源だった水田の急拡大で、急騰した関東農民の価値が土地制度に反映されなかった事が、乱の構造的背景となった。稲穂が秋風にうねる豊かな田園の拡大と共に、関東平野には動乱のエネルギーも充満しつつあった。



頼朝の事故死後鎌倉幕府の支配者となった北条家が、
執権時宗の頃元寇戦死者を悼んで建立した円覚寺の
境内を横須賀線が突っ切る。横須賀の軍港と大船を
最短で結ぶ為軍部の力で境内に線路を引いたという。

この不穏な空気の中で武士という新興階級として勃興しつつあった、伊豆の北条家ほか関東の土地持ちの武装農民が自治政府を目指していわば凝結核として担ぎ上げたのが源家嫡流の頼朝だった。鎌倉政府の存在意義は、まずこの土地の法的安定性確保にあった。一地方の反乱軍本部に過ぎなかった鎌倉を全国区の武家政権の首都にまで持っていったのは怜悧な頼朝の政治力だが、自前の経済基盤や軍隊を持たない頼朝の特に初期の権力基盤たるや由比ガ浜に盛った砂城のように儚く、一つ間違えば一波で跡形もなく流されてしまう危うさだった。この点、自前の強大な軍事力を背景に天下に号令した後世の織田信長 ・豊臣秀吉・ 徳川家康ら戦国覇王の磐石の権力基盤とは、全く事情が違 った。



満福寺に残る、武蔵坊弁慶の下書と伝えられる腰越状の
ドラフトには、自身が京都政府から任官された事は源家
の名誉なのに、との一節がある。この一事で義経が兄・
頼朝の怒りの理由を全く理解していなかった事がわかる。

ルートヴィッヒ同様、政治的VIPでありながら政治眼の無い義経には、支持母体の領地安堵や紛争調停係として神輿のように担がれて辛うじて政権の体を成していた頼朝政権初期の砂上の楼閣に近い脆さが見えていなかった。義経は、兄・頼朝を支える重要なサポーターでもある御家人達に君主然として高飛車に接し、また兄が政権の存在意義をかけて戦っている律令体制を代弁するアンシャンレジームとも平気で交わり、頼朝の許可もなく検非違使の判官(京都府警本部長というところか)に任官した。遂に臨界点を超えた頼朝は義経追討を命じ、この不器用な天才は日本中を追い回された挙句、哀れ首桶に詰められて腰越の浜に戻り、あろう事か天敵・梶原景時に首実検される屈辱を味わう破目になる。



車端部にある従者の間

ルートヴィッヒの美の追求にせよ、義経の平家覆滅にせよ、主題や目的には一直線だがどろどろした俗世の利害には無関心というのは一見純粋で爽やかだが、それは同時に他人の利害にも関心が行かない幼さも意味する。このようなタイプが多様な利害を調整しなければならない立場に立つと、その純粋さに対する評価は忽ち美徳から悪徳に一変する。本人がその政治的地位に居座り続ける限り混乱が収まらないとなれば地位から引きずり下ろすしかないが、政治的地位が世襲身分と密接に結合していた時代にあっては、地位剥奪の手っ取り早い方法は生命の剥奪だった。総スカンを食ったヒーローの破滅的没落は、この意味で洋の東西を問わず悲運ではなく必然だ ったのかもしれない。

美の追求以外何も考えずに造られたこのデコレーションケーキのような宮廷列車を見ていて、つい源平の昔に思いを馳せた。



ルートヴィッヒの魂を深く揺さぶったエリザベート
【Wikipediaより引用】
 鉄道の話であった。話を12世紀後半の坂東から700年後の南独に戻すが、本論に戻る前にこの興味の尽きない王の分析にもう少々お付き合い戴きたい。

四面楚歌の王が唯一心を許し、激しく憧れたのが従姉エリザベート(愛称 Sisi シシィ、Sissi や Sissy とも表記)だったが、彼女は既にオーストリア皇后であり、叶わぬ恋だった。そんな事や周囲の目に頓着しない従弟の一直線の湿った視線に困惑したエリザベートは、妹ゾフィとの結婚を勧めルートヴィッヒ2世も一度は同意する。しかし一本気で許容範囲の極めて狭い王は姉の方を忘れられず破談にしてしまった為、遂にそのエリザベートにまで嫌われてしまう。愛するものを遂に全て失った王は政務から頑なに逃避するようになり、彼のみを乗客とする宮廷列車もまた、その美しい姿を人目に晒す事なく森閑とした車庫の奥で長い眠りにつく。



通常は目がいかない台車回りも手抜きが無い。製造社の銘板は階段脇にあった。

しかし現実はメルヒェンよろしく眠れる森の美女を決め込んでいられる状況ではなかった。産業革命による大量生産は大きな統一市場を必要とした為、お伽の城やお伽列車の車庫の外の世界では、ドイツ経済史上未曾有の地殻変動が進行中だった。多数の領邦 Fürstentum が小王国となり主権を分有した独特の伝統の為に産業革命・工業化に出遅れたドイツにとって天下統一は焦眉の急で、為に国家そのものの構造も領邦国家群立体 制から統一帝国へと、時勢が急湍のように流れる激動期だったのだ。当時のドイツ諸国では北のプロイセンと南のオーストリアの力が群を抜き、バイエルンがこ れに続く構図だったが、バイエルンは役者が揃わず皇帝レースから降りてオーストリア側に付いた為、まず普墺二者間で雌雄を決する必要があった。国力がほぼ 拮抗する場合は指導者の優劣がものを言う(先程の源平合戦の例でも、屋島までは兵力で圧倒的に優勢だった平家の総帥が 宗盛ではなく智勇共に優れた知盛だったら歴史は変わっていたかもしれないのだ)。運命の女神はプロイセンに微笑んだ。



究極の耽美派客車
 鉄血宰相ビスマルク Otto Eduard Leopold von Bismarck 第5話*参照)という傑物を輩出した北方の雄・プロイセンは「鉄(大砲)と血(兵力)」で四隣を切り取り、或いは老獪な外交力で調略し、プロイセン主導の天下布武に向かって突き進む。1866年の普墺戦争の勝利でまずプロイセン主導・オーストリア抜きというドイツ統一の方向性を確定し、翌67年には自らを中核とする軍事同盟を連邦組織にアップグレードした北ドイツ連邦* Norddeutscher Bund)。この連邦は、優秀な法務官僚でもあったビスマルクが、来るべき統一に備えその受け皿となるべき統治機構を予め準備したもので、その周到さには舌を巻くばかりだ(果たして大事が成った後、北ドイツ連邦憲法はドイツ帝国憲法 - いわゆるビスマルク憲法Bismarcksche Reichsverfassung - の下敷となり、ひいては明治憲法の下敷にもなる)。その返す刀で1870年の普仏戦争で連邦軍はナポレオン3世第18話*参照)を打ち破り、その過程でばらばらだったドイツ諸侯の完全把握に成功したプロイセンは、ドイツ皇帝の座に文字通り王手をかけた。


車体中央を飾るヴィッテルスバッハWittelsbach家の家紋

普墺戦争で懲りたバイエルンは普仏戦争の時はプロイセン側について事無きを得たが、プロイセンが軍事作戦に、外交に、法整備にと王・宰相以下こぞってアドレナリン全開で回転し、壮大な構想と緻密な計画の下に怒涛の進撃をしていたその時、わがルートヴィッヒは不眠に悩み虫歯に不平を鳴らしつつ築城費をめぐって渋面の家臣と不毛の押し問答を繰り返す以外何をするでもなく日を消していたのだから、全く勝負にならなかった。それどころか王はリンダーホーフ城に引きこもり擬似鍾乳洞の屋内人工池に貝の形の黄金の小船*を浮かべ独り漂っていたというからただごとではない。戦後ドイツ諸侯が仏ヴェルサイユ宮殿で一堂に会していよいよドイツ統一のあり方を議論した会議にすら、ルートヴィッヒ2世は欠席してしまう。この時点で、王国の命運を決する死活的に重要な局面にすら王は既に当事者意識を失っていた事になる。翌1871年、ドイツ帝国成立。プロイセン王ヴィルヘルム1世が帝位に着いた。



勝者ビスマルクに何やら語る敗軍の将・ナポレオン3世と、この歴史的瞬間を
遠巻きに見守る独(普)軍将兵達。捕虜となった仏皇帝を辱めないよう、
椅子を並べて対面する配慮を示したビスマルクの風格が際立つ。
【Wikipediaより引用】
 さまざまな剥き出しの利害が激しくぶつかり合うどろどろとした現実に対応できない王は「凡人は利害で動き理想が低い」と軽蔑し、凡人という現世の絶対多数を軽蔑する事で更に孤独になる。ヴィスコンティ監督は、映画の中で世間の良識を代弁させているデュルクハイム大尉に、要約「陛下のような特権的自由を持たない万人の自由とは、恣に生きる自由ではなく、道徳の枠内で慎重に人生を愛する自由なのです。物欲にかられた理想の低い凡人から成る世間は卑しいという認識を改める事が、陛下が孤独から逃れる唯一の道です。」という実に味わい深くも勇気ある諫言をさせているが、築城三昧やお伽列車への湯水のような出費を自らの芸術的理想の高さで正当化していた王としては、大尉の諫言を受け入れれば逃げ場が無くなってしまう。従って大尉の貴重な諫言が王に聞き入れられる事は決してない。

周囲から誰もいなくなった孤独な王を乗せた貝形の小船は、白鳥の騎士ローエングリン Lohengrin船の形*に着想を得たものと思われる。王が幼少期を過ごしたホーエンシュヴァンガウ城で白鳥伝説の絵に囲まれて育った事を忖度すると、現実に疲れ果てた王は無意識のうちにその原風景の世界に戻ろうとしたのかもしれない。

(第24話 傾国の美城に殉じた白鳥王の宮廷列車 III に続く)
 
 
     
 
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資料は各脱稿日現在の該当会社・団体のHP、WikipediaWebsite über die schnellsten Züge der Welt 各所掲のデータを参照したもので、それ以上の検証は行っていない。
意見にわたる箇所は全て筆者の私見である。
   
 
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