Trans Eurasia Express since 2002

 
is a quarterly articles series, now kindly hosted by H.I.S. London (until No.49 by H.I.S. Touristik Deutschland GmbH) on interesting trains and other means of transportation in Europe, Asia and other corners of the world, with technical, historical and cultural interests. All photographs, sounds and videos are taken by the author unless otherwise expressly mentioned.

Mikio Tanaka

 
     
   


 
70. ベルリン今昔物語 I

ー 冷戦期の交通史跡 ー
Historical Means of Transport in Berlin during the Cold War
今回の撮影地: ドイツ


絶望的状況での利用が検討された有人核ミサイル、F104-ZELL。自軍基地の滑走路が破壊さ
れていてもロケットブースター(白矢印)で離陸し敵軍を核攻撃するが、戻れる基地は無かった。
Top: The zero-length launch (ZELL) experimental F104 fighter plane of the German
Bundeswehr. ZELL was intended to strike back even if the runway has been destroyed.

ベルリンはプロイセン王国・ドイツ帝国・ナチスドイツ・東ドイツ・統一ドイツ[註1]の首都であり続けた。今号は乗物を通して冷戦期のベルリンを振り返る。

[註1] 1871年のドイツ帝国成立時の統一と区別して再統一Wiedervereinigungと通称される。厳密には西独憲法だったボン基本法が想定していた2国家の統一ではなく、自壊した旧東独を構成していた五州が旧西独に加盟する形を取ったので、実態は旧西独による旧東独の吸収合併だった。
 
 ZELL
 

ブランデンブルグ門上の四頭建て馬車クワッドリーガQuadrigaで鉄十字アイゼナー・クロイツeisener Kreuzを掲げるローマ神話上の勝利の女神・ヴィクトーリアは、激動のドイツ近現代史をここから眺めてきた。彼女は一旦ナポレオン軍に戦利品として奪われたが、8年後フランスの敗北に伴い奪還された。第二次世界大戦でベルリンは壊滅したがこの門は残った。ソ連は鉄十字をドイツの軍事力の象徴と見て取り外したが、ソ連と東独の崩壊後、鉄十字も旧に復し今日に至る。この鉄十字が取り外されていた冷戦期は、表面上の平和の裏で熾烈な兵器開発競争が行われていた。一例が旧西独軍のF104の改造機、ZELL(上)だ。



上:こんなに近くてロケットエンジンが爆発事故を起こしたら水爆も誘爆しないかとか、加速にパ
イロットが耐えられるだろうかとか、素人目にも無理のある飛行機だった。下:地対地核ミサイル。
The Bundeswehr once considered a plan to deploy F104 ZELL with a waterbomb

戦後ドイツの東西分割を経た再統一という史実は、東西の軍事均衡の上での戦争回避努力の賜物だ。もし一方が他方を軍事的に圧倒していれば全く別の展開になっていただろう(歴史にifは無いというが、そのifの世界を映画化したのが後述の「高い城の男」だ)。開戦となれば西独はソ連軍の圧倒的な戦車部隊に短期間で占領される事が危惧された。そうなれば有効な反撃手段は核兵器しかないが、その時点では空港も爆撃され滑走路が使えない可能性が高かった。そのような極限状況でも使い捨て式ロケットエンジンでサンダーバード2号のように発射台から離陸してソ連の大軍を核で薙ぎ払う為に試作されたのが、このF104 ZELL(zero length launchの略)だ。上は離陸テストの解説板、左下の機体中央に抱いた白い容器には広島型原爆の50倍の威力の水爆を格納予定だった。しかし任務に成功し核爆発の衝撃波から逃げ切っても、着陸可能な滑走路が無いと操縦士はパラシュートで脱出し機体は墜落するに任せるしかない。要は有人核ミサイルで、操縦士に残酷で高価だったうえ誘導ミサイルが進歩した為ZELLは量産されず、試作機がベルリン西郊ガトウGatowの空軍博物館Luftwaffenmuseumで保存されている。



下:ブースターには「戦闘機並びに戦闘爆撃機型航空機の無滑走離陸用ロケット
エンジン」と記されており、F104用以外にも製品化される案があった事を窺わせる。
Since ZELL was materially a manned missile (the pilot cannot return to its base because the
runways are already destroyed), the project was abandoned and replaced by guided missiles.

大規模な核戦争にエスカレートするリスクを冒して核のボタンを最初に押す究極の判断を迫られるのは西独になる可能性が高かった。予定戦場の最前線に位置し、かつ通常兵力に劣るからだが、国家存亡の危急時に小田原評定をしている時間は無いので予め肚を決めておく必要があった。小学生の頃、西独の現地校に通っていた筆者は同級のませがきの「赤化される位なら死んだ方がましか、死ぬ位なら赤化された方がましかBesser tot als rot, oder besser rot als tot、お前はどっちだ」という問いの意味を理解できなかった[註2]

[註2] この時の教師の返答が今思い返すと神回答だった。「戦争が起きたらまた大勢が死ぬ。最善策は開戦を防ぎつつ歯を食いしばって軍拡に努め、ソ連にも同様の軍拡の負担を強い続ける事だ。そうすれば体制に無理のあるソ連はいつか自滅し、戦争をせずに危機は去る」。現代の教師が聞けば目を剥きそうな内容を小学生相手に言ってどうなるものでもないが、それから約20年後の1991年にソ連は崩壊し、その通りになった。


下:一角獣のような長い角は、東独空軍が大量に制式採用したソ連製ミグ戦闘機の特徴だ。
奥に同時期の西独空軍の主力、F4ファントム戦闘爆撃機が見える。今考えるとファントム(幽
霊)とは妙な名前だが、尾翼を左右に垂らして飛ぶ特徴的な後ろ姿はお化けのようでもある。
After German reunification American and Soviet weapons co-existed at the Bundeswehr.

東西統一の結果、米ソの兵器がドイツ軍で併存する事となった。上記博物館では旧東独の共産主義式国章(右)を付けたままのソ連製ミグ戦闘機も散見された。もし開戦となれば死闘を演じる筈だった西独機(左)と東独機(右)が仲良く翼を並べる光景は、第59話のコンコルドとツポレフTu144のツーショット同様、平和を実感させてくれる。左の鉄十字はドイツ騎士団のマークがルーツでプロイセン王が最初に制定し、以後ドイツ帝国・ナチスドイツ・西ドイツ・現ドイツで勲章のベースデザインに使われた他、西独時代から今日に至るドイツ連邦軍Bundeswehrのシンボルマークにもなっている。

 
 空の架け橋Luftbrückeと呼ばれたベルリン大空輸
 

戦後協定でベルリンの東半分をソ連、西半分を米英仏が占領する事となったが、その状況を変えたいソ連は1948年6月西ベルリンを武装包囲し交通もライフラインも全遮断する強硬手段に出た。西ベルリン市民約250万人に対する兵糧攻めは、長引けばウクライナに対するホロドモール(20世紀最大の悲劇の一つとされる飢餓殺戮)の再現になりかねなかった。



左:ベルリン大空輸で活躍したテンペルホーフTempelhof空港の現在(Googleの衛星写真)。同空港
は世界首都ゲルマニア計画 下で建設され弓状の壮大なターミナルビルを有したが、周辺が市街化し
拡大が困難となり、2008年に廃港となった。当時の輸送機が1機保存されているのが見える(矢印)。
右中下:空港で荷下ろしする輸送機群と、それを歓迎する西ベルリン市民(Wikipediaより)。
Google aerial view of the Tempelhof Airport (closed in 2008), and
the Western planes at the Great Berlin Airlift (source: Wikipedia)

そこで米国を中心とした西側諸国が西ベルリン市民を救うべく、人類史上最大の物資空輸作戦が実行された。所定ルートを少しでも外れるとソ連軍に撃墜されかねない緊張の中で、100機以上の大型(当時)輸送機が往復の燃料を積んで、東京の通勤電車並の3分間隔で250万西ベルリン市民の生活を維持するのに必要と見積もられた食糧・医薬品・燃料(当時は石炭)毎日約3000tを運び続けた。着陸に失敗しても、背後に迫っている次便以降を支障しないようやり直しをせず物資を積んだまま西独に戻ったという。翌1949年にはパイロットも習熟し、4月16日には1日で1398往復(24時間ぶっ通しで毎分1機にほぼ相当)・空輸量12,940 tという最高記録を達成した。ベルリン大空輸の累計飛行距離は地球~太陽の距離約1.5憶kmに匹敵したという。同大作戦は西ベルリン市民に熱狂的に歓迎され、強硬策の失敗を悟ったソ連は1949年5月に封鎖を解除した。



上:ガトウ飛行場には管制塔(左)の隣に移動管制車(右)まであった。下・左上:ベルリン大空輸でも活躍した
このオーストラリア空軍のC-47スカイトレイン(DC-3の貨物機版)は英国軍に貸与され「ダコタ」と命名された。
C-47 Dakota of the Royal Australian Airfrorce diplayed at the airforce museum in Gatow, Berlin

ベルリン側の受け皿はテンペルホーフ・ガトウ両空港が主に用いられたが、容量不足の為テーゲルTegel空港(後にベルリンの主要空港に成長した)も急造された。ベルリン大空輸の記念碑はテンペルホーフ空港跡近くにある他、供給側だったフランクフルト・アム・マイン空港南東端、ツェッペリンハイムZeppelinheimにもある。

 
3 ベルリンの壁Berliner Mauer今昔
 

ベルリン封鎖解除の翌月、米英仏占領地区に西独(ドイツ連邦共和国BRD、暫定首都ボン)が、そしてその4か月後にソ連占領地区で東独(ドイツ民主共和国DDR)がそれぞれ建国された。ところが東独から西独への市民の大量脱出(毎年15~30万人)が始まり、1949~61年の13年間に約300万(東独人口の15%に相当)人近くが東独を脱出し、しかも脱東は増加の一途で、1961年8月には最初の1週間だけで1万人に達した。国が抜け殻になる事を恐れた東独は1961年8月13日、予告無く東西ベルリン間の交通を遮断し西ベルリンを有刺鉄線(後にコンクリート化)で囲った。ベルリン封鎖が西ベルリン獲得が目的だったのに対して、壁建設は東独市民が西独に逃げないようにするのが目的で、長大な西独国境にも壁が造られた。



左上:当時のベルリンの地図。多くの地下鉄路線がベルリンの壁(赤線)を横切っているのがわかる。
Berlin Wall in around 1970 – The shape is completely different from the latest wall before destruction

実家の古アルバムの中から、1970年頃にベルリンに旅行した時の写真が出てきた。西ベルリン側に組み上げられた展望台から壁の東側を親が撮影したものだ。壁の東側は脱出者が隠れられないよう更地化され、一時は対人地雷まで埋められていたという。上の写真ではまだ単なる荒壁だが、次第に「改良」が重ねられ最終的には上端に断面が円形のコンクリートを被せ、掴まる所を無くして乗り越えられない形状になった。現在、ベルリンの壁の大半は撤去されたが、一部は歴史遺産として残されている(次の組写真右上)



Some sections of the Berlin Wall remain as historical sites

冷戦期、壁の西側は落書だらけだったが、芸術作品もあった。下は有名な絵の一つをミニチュア化し、壁の破片と東独を代表する自動車トラバントTrabantという最強キーワードを組み合わせた土産だ。正視に耐えないこの絵はソ連のブレジネフ・東独のホーネッカー両指導者間の社会主義的な兄弟の接吻sozialistische Bruderkussの様子を描いたものだが、添書がこの絵を世界的に有名にした。壁上部には「神よ、生き延びられるよう私をお助け下さいГосподи! Помоги мне выжить」とあるが、壁下部(破片と模型の陰)に「この破滅的な愛をсреди этой смертной любви」という続きがあり、東欧の優等生と言われた東独もソ連に依存してのみ存在していた事を端的に描き出した。



東独ホーネッカー首相の公用車、フランス製Citroën CX25 Préstigeのストレッチリムジン
と西独ブラント首相の自国製メルセデスベンツ300SEL 6.3の模型。後者は穏やかな意匠の
3000cc用のボディに6300ccの強力エンジンを押し込んだ、羊の毛皮を被った怪物だった。
Official state cars of Willy Brandt (Mercedes Benz 300SEL 6.3) and of Erich Honecker
(stretched Citroën CX25 Préstige) who rejected to use a West German prestige car.

しかしホーネッカーはプライドが高く、その公用車はチェコ製Tatra・フランス製Citroën・スウェーデン製Volvo等で、西独車もソ連車も採用しなかった。国家元首公用車Staatskarosseは自動車生産国の場合は自国の最高級車を用いるのが普通だが、東独ではトラバントのような軽自動車しか作られておらず、西独の高級車だと体制の敗北を認めるようで沽券にかかわり、親分のソ連の車を使うのも癪だしそもそも最高級車ジルは冴えないし、敵のアメリカの大型車を使う訳にもいかず、という悩みが手に取るようにわかる。尚、壁崩壊後東西マルクの等価交換で西独マルクを握りしめた旧東独国民の多くが最初に買ったのは西独車だったというのも、車好きのドイツ人らしい。



上:テーゲル空港の片隅に古いSバーンの車体を用いたカレーソーセ
ージCurrywurst屋がある。店名はS-Bahn(高速列車Schnellbahnの
略、JRの通勤・近郊電車に相当)とessen(食べる)を掛け合わせている。
Bottom: Level crossing of railway and the East/Western border (model)

壁は地下鉄の路線網とは無関係に造られたので、壁の下を線路が横切る路線も当然出てきた。主に西ベルリンを走る路線は、東ベルリン区間は無停車で運転された。路線が一部外国に食い込む場合外国区間を無停車として国境検査を省略する列車を回廊列車Korridorzugという(1985年のシェンゲン協定が欧州域内大半の国境検査を廃止した為回廊列車のコンセプト自体が無意味になった)が、考え方としてはこの地下鉄も一種の回廊列車だった。西独と西ベルリンを途中東独区間無停車で結ぶ長距離列車もあったが(西ベルリンは当時米英仏共同管理下で厳密には西独の飛び地ではなかったという形式論だけではなく)国境検査が行われたので本来の意味の回廊列車とはいえない。下は線路が東西ドイツ国境やベルリンの壁をクロスする区間の再現模型。



上:Klosterstraße駅は古い地下鉄車両が保存されている他ギャラリーが傑作なので稿を改めてご紹
介する。右下:博物館のような店内の特等席は、この椅子型のタイル張り暖房機Kachelkaminだ。
Bottom: Partly reconstructed medieval wall – The first generation of the walls in the history of Berlin

ベルリンには大別して3種類の大規模な壁があった。古くは①中世城塞都市時代の壁、次いで②19世紀プロイセン王国時代に軍事的に無用の長物となった①を撤去し、代わりに関税徴収の為に拡大した市域を囲った税関壁、そして③冷戦時代に東独が西側への自国民脱出防止の為に築いたベルリンの壁だ。①は修道院通りKlosterstraße駅近辺の、これまたベルリン最古というレストラン「Zur letzten Instanz(最終審へ)」に沿って一部が再現されている(左下)。妙な店名[註3]だが、区裁判所Amtsgericht(機能的に日本の簡易裁判所と法務局を兼ねる)[註4]や連邦弁護士会が至近にあるからだろう。

[註3] メニューも傑作だ。仔牛のレバーが「交互尋問Kreuzverhör」、Grillhaxe脛肉のグリルが「仮処分Einstweilige Verfügung」、アイスバインが「法廷書記官Gerichtsschreiber」等々。
[註4] 但し本当の最終審である最高裁に相当する連邦裁判所は首都ベルリンではなくカールスルーエにあるのが地方分権国家・ドイツらしい。


下:通行・撮影を禁止する、東西ベルリンの東側国境標識。
Top: Only the American, British and French civil aircrafts
were allowed to connect West Berlin and West Germany

東独が文字通り一夜にして壁を築いた結果、その日その時偶々どこにいたかによって家族や職を失った市民が大量に出た。壁建設後も西ベルリン市民は東ベルリンの短期訪問は許されたが、逆は不可[註5]だった。西独の事実上の飛び地となった西ベルリンとの間は限られた空路・鉄路・高速道路での移動が許された。空路については西ベルリン占領者である米[註6][註7]仏の航空機に限定され、西独のルフトハンザ機の東独乗入は禁止された。ドイツ内の短距離移動に外国の航空会社が就航する一点を取り上げても当時のベルリンが如何に特殊だったかが分かる。

[註5] 後に、65歳以上の年金受給者・アルコール中毒患者・精神病患者の東独市民は、西ベルリンに行く事を許されるようになった。
[註6] 今は亡きパン・アメリカン航空のB727(上は当時の絵葉書)が主に投入された。1970年頃当時住んでいたハンブルグからベルリンまで家族旅行をした時もこれだった。B727は筆者の知る限り最も美しい3発機だったが、後継機B757(トランプ大統領のプライベートジェットもこれだ)はより効率的な双発機になった。
[註7] 当時は英国欧州航空BEA。1974年に英国国際航空BOACと合併して現在の英国航空BAとなった。
 
4 チェックポイント・チャーリー今昔
 

東西ベルリン間の検問所は西独市民用・外国人用・軍人用に分かれていくつかあったが、外国の民間人が通れる主なゲートがCゲートだった。聞き違い防止の為Aはアルファ、Bはブラヴォー、Cはチャーリーと呼ばれたので、Cゲートは後にチェックポイント・チャーリーと通称されるようになった。



Reconstructed Checkpoint Charlie is a simple, guard-hut style
building like the one as illustrated in the “The Man in the High Castle” (bottom right)

今日のチェックポイント・チャーリー跡。道路をブロックしていた壁があった方向が路面にそっと示されているのみだが、西側検問所が観光用に再建され、ソ連兵の写真が旧西ベルリン方面を、その裏側は米兵の写真が旧東ベルリン方面を向く。土嚢が積まれ軍事的演出がなされているが、検問所の規模は簡単なものだ。右下のテールフィン付きの通称「ハネベン」が入構しようとしている在サンフランシスコ日本憲兵隊本部(映画「高い城の男The Man in the High Castle」より)の守衛所と同レベルだ。





Soviet side of the Checkpoint Charlie was much bigger and solid.
These photos were taken by my parent approx. 50 years ago.

東側検問所はもっと大がかりだった。左上・下:これらは同じ場所をほぼ半世紀前の家族旅行の際に親が撮影したもので、大がかりなコンクリート製監視塔が東独側道路中央に存在した。奥に見えている横長の赤白の縞模様はバーではなくコンクリート壁で、クランク走行を強要して強行突破を防いでいた。2階建バスの最前席にいたので、高い目線からクランク構造を見通す事ができた。写真左上右端に見える「貴殿は今米国セクションを去ろうとしている」という警告文は、現在チェックポイント・チャーリー博物館で展示されている(右上)。英露仏独の表記順序と独文のフォントの小ささが、当時ドイツが置かれた弱い立場を象徴しているかのようだ。西ベルリンに戻る際は東独兵がバスの底にコロ付きの大きな鏡を差し込んで脱出者が隠れていないか念入りにチェックし、無事西ベルリンに戻った時は子供心にも安心したものだ。



Efforts of escape to the freedom, as displayed in the Checkpoint Charlie Museum

1961~88年の間に脱東した約23.5万人中ベルリンの壁を乗り越えた者が約5000人あったというが、壁の管理が強化された1964年以降は壁経由の脱出は激減し、射殺事件も相次いだ。そこで壁を乗り越えない脱出方法が種々試みられ、その実例をチェックポイント・チャーリー博物館で見る事ができる。左:子供をトランクや買物車に押し込むといいう、最も原始的な脱出例。右上:ボンネットのスペアタイヤ裏に隠した例(フォルクスヴァーゲンの初代カブトムシVolkswagen Käfer Iは後部エンジン車だった)。右下:BMWの軽自動車イセッタのエンジンルームに脱東者を隠した例。いくら250ccの小さなエンジンでも揺れる車内の極限に狭いスペースの眼前でエンジンとファンベルトがぶんぶん回っているのは恐怖だったろう。



Ditto

上・左下:前方が見えるよう小穴を多数開けた鉄板でフロントガラスと後部ハッチを装甲し、東独兵から機銃掃射を浴びつつ正面突破で脱出に成功した数少ない車。この簀子状覗き穴の至近に貫通痕がいくつかあるが、運転手は無傷で脱出できただろうか。右下:自家製飛行機。この他にも自家製熱気球・自家製プロペラ機・自家製潜水艦での脱東例もあり、メカに強いドイツ人の面目躍如だ。反面、西側に泳ぎ着く寸前に東独兵に射殺されたり、気球から墜落死したり、壁の地下3mを約150m掘り進んだトンネルを使った大掛かりな脱出劇(東京オリンピックの年だったので東京作戦と呼ばれた)では暗黒と恐怖で錯乱した人がいたり等、悲惨な例も多かったという。脱東に失敗した犠牲者数は100人台から約1200名まで諸説がある。

 
5 ブランデンブルグ門Brandenburger Tor今昔
 

上述のように、ベルリン史上大きな壁は3回出現した。2度目の壁である税関壁時代の門の中で、プロイセン王宮に面したいわば正門がブランデンブルグ門だった。冷戦時代はこの門のすぐ西側に(3度目の)壁が築かれた。



当時の門は、トリーアの黒門Porta Nigraのように風化するに任せ黒ずみつつあった。
ローマ数字で20を意味する「XX」とあるので、家族旅行は東独建国20周年の1969年
だったのかもしれない。ここから更に約20年後の1990年には東独は崩壊する事になる。
Top: Postcard of the Brandenburger Tor some 50 years ago (trimmed). The façade of the
unmaintained gate was darkened through weathering like the ancient Porta Nigra in Trier.

上:半世紀前のプランデンブルグ門の絵葉書の一部。北からの撮影のようで壁の右側が西ベルリン(現・3月18日広場)、左側が東ベルリンだ。中:赤々と翻るソ連の旗がソ連支配地区である事を示していたこの金網だらけの更地には、現在皮肉にもソ連の天敵だったアメリカ大使館が建っている。下:当時のブランデンブルグ門中央には大きな共産主義のシンボルマークが掲げられていたがソ連のような鎚と鎌ではなく、鎚とコンパスというところがメカ好きのドイツ人らしかった。冷戦期の東欧諸国の国旗中央にはこのような共産主義のシンボルが描かれていたが、彼らにとってはソ連の頸木の象徴でもあり、東欧諸国が続々とソ連の支配を脱した東欧ドミノ当時は、中央部分をくり抜いた国旗が自由化のシンボルとなった。東独の場合も「槌とコンパス」を除くとそのまま西独国旗となり、1990年のドイツ再統一後は西独国旗がそのまま統一ドイツの国旗となった。



ブランデンブルグ門の西側、3月18日広場ではプロイセン時代の1848年3月18日に民主化闘争で多くの市民
が死亡し、また1990年の3月18日には東独側で西独への統合が可決され、東独(自国)の存続が否決された。
Brandenburger Tor today (Google maps)

ジョンF.ケネディ大統領の「Ich bin ein Berliner」の名演説など、米ソ双方が相手方を「口撃」しつつも、核戦争に発展しかねない武力衝突は慎重に避けつつ一世代に渡ってベルリンの軍事均衡が保たれた。そして28年後の1989年11月9日、ペレストロイカの流れの中でベルリンの壁は突然開放された。均衡が崩れて軍事衝突に発展する暇も無く突然逆戻りできない状況になったのは、ドイツと世界史の幸運だった。このブランデンブルグ門の前の壁を大勢の市民が自然発生的に壊して壁の崩壊を祝い、ドイツの€1コインもブランデンブルグ門を意匠化したものだ。壁崩壊後の東独の命運は釣瓶落としで、国家崩壊まで1年とかからなかった。東独という国の維持に壁が如何に重要だったかが、この一事でわかる。ベルリンの歴史はどこまでも映画のようにドラマチックだ。



The Quadriga on the Brandenburger Tor, Berlin Central Station and
the German Federal Parliament, seen from the Weltballon

続編でご紹介する大型係留気球ヴェルトバロンWeltballon(左上、第61話でご紹介した気球と同型機)から見たブランデンブルグ門上で4馬力のシャリオに乗るヴィクトーリア(右上)。下:連邦議会(手前)の奥に現・ベルリン中央駅が見える。ヒットラーの計画では両者の中間に巨大なVolkshalleが建設され、中央駅はテンペルホーフ空港近くに建てられる筈だった。

 
6 高い城の男 The Man in the High Castle
 

この映画は、第二次大戦でドイツのみが核兵器開発に成功しワシントンDCが核攻撃を受けてアメリカが降伏し、アメリカの東2/3をドイツが、西海岸を日本が支配するが両雄並び立たず、1960年代に入るとドイツは日本が核を持つ前に日本を先制核攻撃しようとするが日本はそうはさせじと既に核を保有しているかの如く振舞うという、恐ろしくもダイナミックな映画だ。



Adolf Hitler planned to reconstruct Berlin as the great capital of Germania, one of the
landmarks of which was the huge Volkshalle (top; Source: “The Man in the High Castle”).

ベルリンを偉大なゲルマン民族の首都にふさわしい都会に改造するヒットラーの世界首都ゲルマニアWelthauptstadt Germania計画が、「高い城の男」では実現されている。連邦議会Bundestagと現・ベルリン中央駅の間、弧を描くシュプレー川の南側のシュプレー弧公園Spreebogenparkの辺りに壮大なフォルクスハッレVolkshalle(国民ホール)が建設される予定だった。上は「高い城の男」で描かれたフォルクスハッレ。夜景(下)の手前、ナチス旗で覆われた連邦議会が小さく見える。昼景(上)のフォルクスハッレの脇を、ナチスのアーチの下をくぐって跨座式モノレールが走る。欧州の都市計画者は装飾性や象徴性に富むアーチ下に道路や鉄道をくぐらせる構図が好きなようで、(現実の)ベルリン市交通局BVG中央管理ビル(続編で紹介予定)やハンブルグ地下鉄のケリングフーゼン通りKellinghusenstraße駅北寄のアーチ(左上)等、各地に見られる。



Concorde in the Airport Tempelhof and in “Pan Pacific Airport” as illustrated in “The Man in the High
Castle” which is a “must see” movie especially for those who love modern history, airplanes and cars.

「高い城の男」は乗物愛好家必見だ。日本占領下で日本語の看板が溢れる仮想1960年代のサンフランシスコの坂を観音開きクラウンやスバル360が走り回り、旅客機の主力はコンコルドになっている。上:特徴的な弓状ターミナルを備えたテンペルホーフ空港と思われる巨大空港に鍵十字マークをつけたコンコルドがずらりと駐機する。下:映画では日本は核兵器のみならず超音速機の開発もできない設定で、日本占領下のサンフランシスコを皇太子が行幸する際もドイツのコンコルドを借り出していた。日本占領地区にもかかわらず、出迎えの車もドイツのベンツ600プルマン米国仕様車だ。日本支配地域(ユーラシア東端・アラスカ・インド等)では高級車が製造できず敵性国家のドイツから買わざるを得なかったとすれば、上述のホーネッカーの方が第三国の調達先があっただけ頭痛は少なかった事になる。

現実のベルリンは第二次大戦で焦土と化し、冷戦期には産業の中心は西独に行ってしまったが、再統一後は首都機能を果たしつつ、ベンチャー企業のインキュベーターや、帝都時代の美しい街並みを活かしパリやミコノスのような芸術家の街として再出発している。

 
準急ユーラシア、次は長崎に停車する。
Next Stop of the Trans Eurasian Express: Nagasaki (J)
(令和元年9月 / September 2019)
 
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資料は各脱稿日現在の該当会社・団体のHP、WikipediaWebsite über die schnellsten Züge der Welt 各所掲のデータを参照したもので、それ以上の検証は行っていない。
意見にわたる箇所は全て筆者の私見である。
   
 
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