Trans Eurasia Express since 2002

 
is a quarterly articles series, now kindly hosted by H.I.S. London (until No.49 by H.I.S. Touristik Deutschland GmbH) on interesting trains and other means of transportation in Europe, Asia and other corners of the world, with technical, historical and cultural interests. All photographs, sounds and videos are taken by the author unless otherwise expressly mentioned.

Mikio Tanaka

 
     
   


 
71. 長崎乗物紀行

ー 日本初と坂の町の文明開化事始め ー
Transports of Historical Town of Nagasaki
今回の撮影地: 日本


上:江戸後期の絵師、川原慶賀の長崎港図(部分)。①②の間が出島だ。左上:幔幕で
客室全体を覆った奇妙な船は、長崎奉行所の入管か税関の船だろうか。左下:見慣れた
出島の絵は北から見た構図なので、現在の出島近辺のGoogle衛星画像もそれに合わせた。
From 1639 the Edo-Shogunate closed the country for more than two centuries mainly due to fear towards monotheistic
Christianity which was considered as being not compatible with Confucianism. Accordingly, as opposed to China, Korea
and Ryukyu (Okinawa) with whom diplomatic ties continued only with some limitations, only the Netherland was
allowed from among the Western countries to make trades, and only through Dejima, an artificial island in Nagasaki.

1 出島
 

出島のbefore(上)& after(左下、Google衛星画像)。長崎にユニークな乗物や乗物史跡が多いのは、坂がちの地形と、出島が象徴する長崎の特別な歴史に由来する。出島周囲の海は今は埋め立てられ、青が長崎電軌1号線、緑が5号線、①が出島電停、②が新地中華街(2018年に築町から改称)電停だ。非キリスト教徒の中国人は市内雑居可だったが、後に唐人屋敷(向かって左奥の山手、現・館内町)に居住させられた(開国後は寂れ、代わりに埋立地の新地②に中華街ができた)



左上:出島電停①はかつて輸出入物資が通関された出島水門前にある。右上・下:出島南端
の元海上を行く1号線。石垣下部の青LEDが、ここがかつて波打際だった事を示す(右上)。
The sea surrounding Dejima has been reclaimed and the buildings of Dutch merchants on Dejima were
removed. However, some historical buildings have recently been reconstructed. Bottom: A street car is
running along the reconstructed Dejima on a section of reclaimed land. Top right: The former
embankment is illuminated in blue to show that it was once seashore.

南蛮船入港禁止(1639年)~日米和親条約締結(1854年)の鎖国中はキリスト教国人の入国は制限され、国交は琉球王国と李氏朝鮮、貿易は中国・オランダ・アイヌに限定された。金額的にも文明的にも最重要の中・蘭との交易窓口は幕府直轄領の長崎だった。キリスト教徒と日本人の接触は避けつつ貿易の実利を得たい幕府は鎖国の5年前に約4000坪の出島を建設し南蛮人(鎖国開始まではポルトガル人、鎖国後はオランダ人)を住まわせ、南蛮人の本土上陸と出島従業員・遊女以外の日本人の出島立入を禁じた。



大窓とバルコンがある副商館長邸2階南端の部屋は、内外の艦船が遊弋する長崎湾の
大パノラマが眼前に広がる展望室だった。今は一面都会化し、南蛮の黒船や和船に代
わって路面電車が行き交う。右下:出島南西角は道路になった為復元事業対象外だ。
From the observation room of the Vice Trading Director’s house from where the Dutch
enjoyed the panorama of Nagasaki Bay, today you can only see buildings and street cars.

建設費の大半、約4000両(ざっくり1両10万円として今日の約4憶円)は長崎商人が負担させられたが、オランダ東インド会社から年1000両の賃料を徴収したというから、4年で元が取れた計算だ。日蘭和親条約(1855年)によりオランダ人の長崎市中立入許可、翌年出島開放令、1859年オランダ商館閉鎖。その後埋立地に埋没し歴史の舞台から消えたが、近年その歴史的意義を認め数十年かけて49棟中25棟が復元され、2017年にオランダ王家の妃殿下と秋篠宮ご夫妻をお迎えして出島表門橋の再建が祝われた。



上:再現された出島表門の幔幕にはオランダ東インド会社の社紋(Verenigde Oost-Indische Compagnie
の略・VOCを図案化したもの)が描かれている。下:商館長の自宅兼事務室だったカピタン部屋。
The curtain of the reconstructed gate of Dejima depicts the symbol of the Dutch East India Company

出島にはオランダの国策会社(中右:社旗は殆どオランダ国旗そのものだ)、オランダ東インド会社(1602年設立・1799年解散、世界初の株式会社の由)の日本支店が置かれた。実学を奨励した8代将軍徳川吉宗は洋書を解禁し、多くの西洋文明が小さな出島経由で日本にもたらされた[註1]が、神学書は除かれた。一神教的絶対的正義の存在を説くキリスト教は何が正義かを教典に照らし各個人に考えさせる為、支配階級だった武士の儒教的統治原理である主君への無条件服従と相容れなかったのだ。日本におけるキリスト教解禁は明治も6年に入った1873年まで待たねばならなかった。

[註1] 欧州世界の東の辺境にあったロシアのピョートル大帝が西洋文明を積極導入した為、彼が遷都した聖ペテルブルグは「欧州への窓Окно в Европу」(ロシア語で窓はアクノーОкноなので覚え易い)と呼ばれたが、出島は「欧州への小さな覗き穴」だった。
 
2 長崎にひしめく「日本初」
 

次の組写真上:日本初の鉄道営業運転(東京~横浜)は1872(明治5)年だったが、試運転も含めた初走行は後述のグラバーが長崎の運上所(税関)前に約600mの線路を仮設して上海で購入した英国製Iron Duke[註2](鉄侯爵、Wikipediaより引用)型蒸気機関車をデモ走行した1865年(慶應元年)で、長崎市民病院前に立つ「我が国 鉄道発祥の地」の石碑がその歴史を伝える。

[註2] 同機は当時の高性能機(最高時速80マイル / 130km)で、英国南西部で実際に急行列車を牽いていた。グラバーは単なる見世物ではなく、日本における実用化も視野に入れていたと思われる。鉄侯爵は「きかんしゃトーマス」でも実名で登場する。


Whether a country underwent the industrial revolution or not made a huge difference. Since Western
technology and culture entered Japan through Dejima in Nagasaki, there are many “the-first- in-
Japan” in Nagasaki, such as railway (demonstration only), Western restaurant, company, etc., etc.

中:外国人が住めば外国料理への需要も出る。出島のオランダ人に料理を習った農民が1863年日本初の西洋料理店を開業、自遊亭、後に自由亭という店名で明治帝やロシア皇太子が訪れる迄に繁盛した。今日自由亭はグラバー園に移築され、食事もできる(勿論、西洋料理だ)。下:配当を約して投資家から出資を募り事業を行う会社組織の日本初も、坂本龍馬が始めた亀山社中だ。町をぐるりと歩くだけで、長崎が西洋文化の導入口として果たした役割の大きさ・多様さを実感できる。



The second round of the first marine accident settlement negotiation in Japan regarding
the first collision of steam ships in Japan was made at this Seifukuji-temple in Nagasaki.

乗物関係で維新前夜最大の事件はいろは丸事件だろう。海援隊[註3]が操船するいろは丸[註4]が紀州藩の軍艦、明光丸と衝突し沈没した。この日本初の蒸気船同士の衝突事故は日本初の海難審判を伴った。当初は沈没地点に近い鞆で海援隊と紀州藩が談判したが、事故直後に押さえた最重要証拠(相手方の航海日誌)に基づき万国公法に照らして正当性を論理的に主張する海援隊隊長・坂本龍馬の西洋的交渉方法に驚いた紀州側は席を蹴り、龍馬は紀州船を長崎まで追いかけこの聖福寺で出身藩の土佐家老も巻き込み談判を継続、遂に天下の御三家の一つ、紀州徳川家55万石に土佐藩経由で8.3万両(後7万両に減額、それでも1両10万円として約70憶円)を賠償する約束をさせた[註5]

[註3] 海援隊は、商社・翻訳・出版・教育から私設艦隊も視野に入れた運送業迄携わっていた亀山社中を、土佐藩の外郭団体として公認したものだ。
[註4] いろは丸は龍馬の勧めで大洲藩にポルトガルから買わせたうえ海援隊が操船したものだが、大洲藩購入担当者は越権行為を理由に切腹させられた。
[註5] 大革命家は敵も多く、維新を数年遅らせたという龍馬暗殺事件は①幕府(見廻組)犯人説②薩長黒幕説(龍馬は薩長の武力討幕計画を大政奉還で阻止した翌月に殺された)③紀州藩による復讐説(龍馬暗殺は紀州藩が土佐藩に賠償金全額を預けた直後でもあった)④土佐裏切説(龍馬を失った海援隊は巨額の賠償金を得ないまま解散させられ、龍馬の遺産は長崎駐在の土佐藩士・岩崎弥太郎が継ぎ、三菱財閥の基礎を築いた)等諸説がある、幕末最大の謎の一つだ。ソ連崩壊後もロシアに大富豪が叢生したが、革命時には不思議なドラマも多い。


右上:当時の古写真の右上隅に日華連絡船が見える。この中島川鉄橋の左奥が出
島だが一面陸地になっており、この頃は既に埋め立てが進んでいた事がわかる。
A replica of the first steamship of the Edo-Shogunate, “Kankō-Maru” at Nagasaki Bay

この外輪船は幕府初[註6]の洋式艦船・観光丸のレプリカだ。開国勧告の為に訪日したオランダ海軍のヤパン(日本)号が幕府に贈与されたもので、長崎海軍伝習所でも使われた。右上:開国後各地から続々と国際航路が開設されたのに対抗し、臨港駅を設け当時アジア最大級の国際都市だった上海~長崎間の日華連絡船運転日に直通列車を走らせ国際旅客の便宜を図った。同様の例は敦賀港駅第9話参照)等にもあるが、1942年の関門トンネル開通直後は航路運航日に特別急行「富士」も直通し、東京発の特急も乗り入れた恐らく唯一の臨港鉄道だった。廃線後古写真の中島川鉄橋も撤去されたが、動輪のモニュメントが残る(右下)

[註6] 二号艦が有名な咸臨丸で、スクリュー式になり日米修好通商条約批准書を携えた勝海舟他遣米使節団を運んでサンフランシスコまで往復した。
 
3 グラバー園
 

グラバー商会のあった敷地には多くの洋館が移築され、グラバー園という見事な野外歴史博物館として整備された。長崎湾を見晴らす傾斜地にあり、斜行エレベーター・エスカレーター・身障者用リフトが完備する。



右上:斜行エレベーターの斜めの階数表示。左下:長崎湾のパノラマを遮る巨大クルーザー
と現存日本最古の西洋建築、グラバー邸。右下:邸内に展示されていたグラバーの行李。
Glover Residence, the oldest Western-style house still remaining in Japan, was built on hillside
overlooking the Nagasaki Bay for Thomas B. Glover (1838-1911), a Scottish merchant who
came to Japan shortly after the country was opened to the world. He assisted the
revolutionary Clans and contributed to the modernization of Japan after the Meiji Restauration.

イギリス東インド会社解散後英国の国策会社的機能を一部引き継いだジャーディン・マセソン商会(現存、以下JM)に入社したスコットランド人トーマス・B・グラバー Thomas B. Gloverは開国早々の日本に派遣され、1861年弱冠23歳(維新の元勲達も奔走時代は多くが20代だった)でグラバー商会を設立しJMと代理店契約を結んだ。1863年、日本が内乱期に入ると武器商人としても活躍、幕府に見切をつけた政治的な動きもしている。例えば英国製の軍艦ユニオン号を薩摩藩名義で長州藩に売り坂本龍馬[註6]の亀山社中が長州の為に操船し、長州征伐に来た幕軍を打ち負かすというウルトラCで、共に討幕派雄藩でありながら敵対していた薩長の連合に貢献した。更に炭鉱開発・造船・製茶・ビール醸造等日本の産業振興に尽力し維新後叙勲された(しかしグラバー商会は困窮した諸藩からの代金回収が滞り明治3年に破産)

[註7] 西洋の民主主義や法学を学ぶ機会も無かった筈の龍馬が政権移行の法的枠組(大政奉還)や西洋的新政体(船中八策)を提案したり、無職の脱藩者が全国を飛び回ったり、薩長という大藩が秘密同盟を結んだ際に浪人の龍馬に裏書を求めたりと、龍馬がスーパーマン過ぎるのも幕末の謎だ。薩長の革命には英国の武器が必要だったので本来なら英国の裏書が欲しい所だが内政干渉の足跡を避ける為、高名な周旋家でかつ西洋の文物の知恵を常々授けられていた龍馬がon behalf of 大英帝国の含意で署名したのか。英国の植民地政策の老獪さと、明治後の薩長藩閥政府の龍馬への冷たさ(長らく維新功労者への追贈対象外だった)からの憶測に過ぎないが。


右下:銅鑼の音を夜空に響かせながら長崎を出航するQoS。大半は中国の乗客なのだろう。
Cruiser “Quantum of the Sea” whose home port was
moved from New York to Shanghai, and further to Singapore

グラバー園からの長崎湾の眺望を遮って聳える巨大マンションのような構造物[註8]は、長崎に寄港中だったQuantum of the Seas号(以下「QoS」)[註9]。所有者は世界第2位のクルーズ会社Royal Caribbean Cruises Ltd.グループ中、ファミリー層を客層とするRoyal Caribbean International社だ。QoSは17万トン級[註10]で同社のラインナップでは23万トン級に次ぐ。「洋上で一番高い展望デッキ」とギネス認定された海面上90mのクレーン式展望カプセルNorth Star(中)、洋上スカイダイビングシミュレーター、船上サーフィン等、楽しみ満載だ。QoSの母港は当初ニューヨークだったが、アジアマネーの巨大な引力に引かれて上海、更にシンガポールへと移った。

[註8] QoSの乗客定員4180名、乗組員1500、合計5680名が乗り、大型タワマン数棟分の人口に相当する。
[註9] 「海の量」号ではピンとこないので、やや詩的に意訳すれば「海容丸」というところか。
[註10] 第45話後半でご紹介したSplendour of the Seas号もQoS同様ロイヤルカリビアンのフリートだった。海面からは巨大に見えたが、7万トン級でQoSの半分以下だ。脱稿日現在こちらもアジア(マレーシア)が母港になった。2020年に猛威を振るったCOVID19の船内感染で有名になったダイヤモンド・プリンセス号は12万トン級で、QoSとSplendour of the Seas号の中間サイズだ。
 
4 長崎湾
 

フランスが幕府に肩入れしたのに対して、英国とグラバーが薩長土の革命諸藩に賭けた痕跡は長崎の随所に残る。次の写真右下は、薩摩藩と協同で祖国英国の技術で建設した日本初の西洋式ドック・小菅修船場だ(現存・次の写真右下)



上:QoSと水中翼船のツーショット。
Bottom left: Kongō-type Aegis warships maintained at the Mitsubishi-dockyard where
the huge battleship Musashi was built during the WW2. Bottom right: Kosuge-dockyard,
the first Western-style dockyard to which Glover has also contributed.

第二次大戦末期、巨大戦艦武蔵の建造秘匿の為、ドックを見下ろすグラバー邸を三菱重工がグラバーの子孫である倉場家から買収した。武蔵完成時には大鑑巨砲主義の時代は去りレーダーによる索敵と航空機戦の時代に一変しており、米軍機の餌食になった。時代は巡り、三菱重工長崎造船所では現代の海上戦の要となる情報処理能力に優れたイージス艦、こんごう型ミサイル護衛艦のメンテが、囲い無しで行われていた(左下)



Top: Takashima Coal Mine, the first steam-driven coal mine established by Glover, was
later nationalized before it was sold off to Mitsubishi which hired Glover. Bottom: Hashima
Coal Mine nearby is called “Warship Island” due to its skyline.

明治元年、グラバーは日本でも産業革命が起き石炭需要が急増すると見越し、蒸気機関を用いた日本初の洋式採炭を開始した(高島炭鉱)が後に国有化され、更に岩崎弥太郎の三菱に払い下げられた。左上:炭鉱入口上部に飾られていた三菱マーク(土佐藩主・山内家の三つ柏(左下)と岩崎家の三階菱(右下、出典は共にWikipedia)を組み合わせたもの)。右上:白骨化したような人車。元々骨格しかなかったのだろう。反り返った座席が軌道の勾配を示す。中:高島炭鉱の坑道模型は大地の血管のようだ。下:高島に近い端島(その遠景から軍艦島とも)全景。



炭鉱夫の高層住宅(中央)と幹部住宅(左下)の壮大な廃墟
Hashima has become a huge ruin after it was abandoned in 1974. It has been designated
as a World Heritage since 2015. Source of top right: “Gunkanjima Nyumon”.

端島は明治~昭和と海底炭鉱で栄え、最盛期には僅か6.3haの島に5300人が住んだ(人口密度世界一説もあった)。江戸末期~明治初期の納屋制度という過酷な労働環境は大幅に改善され、鉄筋コンクリート造の高層集合住宅(これも日本初だ)が香港のかつての九龍城のようにびっしり建てられた。台風時に住宅棟が防波堤を兼ねて採炭設備を守る建物配置(右上、「軍艦島入門」(実業之日本社)より引用)に高度成長期の哲学が見え隠れする。エネルギーの石油への大転換により1974年閉山、無人島になった。現在の見事な廃墟っぷりはタ・プローム遺跡の日本版と言え、廃墟ファンでなくても一見の価値がある。2015年に端島の一部が世界文化遺産に登録された。

 
5 ボックス・カー
 

「日本初」が多い長崎には「世界史上最後[註11]」もある。原爆の実戦利用だ。広島に人類初の核攻撃を行ったB29エノラ・ゲイについては第33話でご紹介したが、その3日後の長崎核攻撃ではエノラ・ゲイは気象観測機になり、原爆投下機はB29ボックスカーBocks Car[註12]だった(次の写真・上、Wikipediaより引用)

[註11]  2019年の中距離核戦力全廃条約INF失効等逆風が強まる中で、こればかりは史上最後であり続けて欲しい。
[註12] 本来同機の機長になる予定だったボックBockと有蓋貨車box carを掛け合わせた造語。ボックは出撃寸前に撮影機グレイト・アーティスト(偉大な芸術家)号担当に変更。シカゴ大学大学院で哲学を学んだ彼は、長崎の人口約24万中7.4万人を瞬殺した功で少佐に昇進して何を思ったか。


左下中:長崎型原爆ファットマンの模型と爆心地(長崎原爆資料館)。下右:長崎原爆死没者追悼平和祈念館。
Top: B29 “Bocks Car” which killed 74,000 civilians in the second (and hopefully the
last in the human history) nuclear attack on August 9, 1945 (source: Wikipedia)

ボックスカーのノーズアートでは文明的な摩天楼街から有翼の有蓋貨車(ボックスカー)が飛ぶ先の長崎には鳥居と中国風の家の上空にキノコ雲が描かれている(水色楕円内)。広島に続く第2核攻撃目標だった小倉上空に雲がかかっていた為急遽Plan Bの長崎に変更されたので、この長崎の絵は作戦後に描かれた事になる。エノラ・ゲイはワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館別館、ボックスカーはオハイオ州デイトンのアメリカ空軍博物館でそれぞれ展示されている。広島電鉄では被爆車両が動態保存されているが、長崎電軌の被爆車は全て廃車され、現存しない。

 
6 坂の乗物群
 

長崎市は市街地の約7割が傾斜地で車道整備困難な地区も多く、2002~04年にかけて天神・立山・水の浦の3地区に歩行者支援装置が設置された。これも日本初だ。





左下:複雑に入り組んだ階段の上に造られているので、軌道も給電線も複雑な形状だ。
In Nagasaki there are many old residential areas at hillside without space for the roads. City
of Nagasaki is trying to assist elderly residents by building small monorails above the stairs.

定員2名(車椅子も折り畳めば混載可)の小型ゴンドラを吊るした懸垂型モノレールが、階段上を歩行者に交じって徐行(時速0.9キロ)する。利用には予め市に登録して発行されるカードが必要だ(観光客は利用不可)。市のHPを見ると施工会社欄に嘉穂製作所の名前もあった。知る人ぞ知るモノラック等の小型モノレールのブティックメーカーで、同社の「作品」例は第47話でご紹介した。



右上:家の玄関先をゴンドラが下っていく。なぜかタオルがかかっていた。
This service is considered as a sort of escalator for the public and is free of charge.

ゴンドラ呼出機は軌道の両端にのみあるが、動き出せばどこでも停車ボタンを押して下車できる(何も操作しなければ終点まで行って自動的に止まる)。ドア代わりのバーを上げても止まる。経済性にも配慮した面白いシステムだ。1時間程観察したが、高齢の方々が結構利用しておられた。



Bottom: 40-year-old diesel cars after partial (left) and complete (right) renewal

稲佐山山頂でトルコライスを愉しむ。なぜトルコなのか謎だが、長崎に来て外せないご当地グルメだ。2011年に更新されたケーブルカーのゴンドラは秀作で、麓側は左右隅もパノラマガラスにして横方向の眺望を、山側(右中)は天井部分にガラスを拡大し斜め上方の眺望も確保、と芸が細かい。下:並走する車齢約40年の同期の桜。左は普通・快速・急行と幅広く用いられたキハ66/67、右はローカル線各駅用の元キハ47。

 
7 或る列車
 

後者は秀吉の金の茶室のように金ピカに大改造され、車格が上だった前者を遥かに凌いでしまった。JR九州の意匠を多く手掛ける水戸岡鋭治がデザインを担当し、2015年に運転を開始したファンタジー列車、「或る列車」だ。



右上:発車時は係員が手でベルを鳴らして回る。昔はそうしていたのだろうか。
The complete renewal of the old diesel car was made inspired by the luxurious car manufactured by J.G. Brill
and Company in the US and imported by the Kyushu Railway Company in 1908 before it was nationalized.

明治末の日本最高級となる筈だった客車がアメリカから納車された時には発注した九州鐵道は国有化され、国鉄の手には余り〇〇号のような愛称付の定期列車に使われないまま消えたので「或る列車」と呼ばれた。JR九州の「或る列車」は全くの水戸岡ワールドで、九州鐵道の同名の列車との共通点は、九州という縁と窓上の半楕円模様のみだ。下:JR九州の「或る列車」内に展示されている、有名な鉄道模型コレクター・原信太郎氏が作成した九州鐵道の「或る列車」の模型。



As opposed to the avant-garde exterior, the interior of the cars is chic.

向かい合わせ式2人個室が障子で仕切られる通路を挟んで並ぶ2号車の客室構造は、同じく水戸岡デザインのしなの鉄道「ろくもん」3号車(左中)と同じだ。ろくもんが明色の木材と紙障子を用いていたのに対して、或る列車の個室車は暗いウォールナット材・障子は福岡特産の大川組子を用いて高級感を増した。ろくもんの天井は照明以外は種車115系時代のままだが、或る列車の天井は個室車は全面光天井、開放室車は木製格子天井に一変し、元のキハ47時代の面影は客室のどこにもない。同じく水戸岡が手掛けたJR九州の高級クルーズ列車、ななつ星in九州の短距離版という感じだ。ローカル気動車をここまで大化けさせた改造費は2両で6憶円也だそうだ。



Eiji Mitooka, a famous industrial designer in Japan, converted the train with full of fantasy.

左上:テーブル席+街灯形照明の開放室は、同じく水戸岡デザインの伊豆急2100形改・ロイヤルエクスプレスと同じ趣向だ。中:種車キハ47は改造後食事施設(シ)付の特別車両(ロ)の気動車(キ)となった為、キロシという新形式ができた。下:大村湾に沿って佐世保に向けてゆっくり流すキロシ47。両開きドアにファンシーなステンドグラスが組み込まれ、海面が反射する日光を複雑に着色してゆらゆらと車内を照らし出す。

 
8 ハウステンボスと長崎空港
 

長崎~佐世保間に約1世紀前のオランダをイメージした日本最大のテーマパーク、ハウステンボス(Huis Ten Bosch、オランダの王宮名に由来)がある。



Huis Ten Bosch with full of old Dutch flair and named after a palace in Hague,
is the largest theme park in Japan. When Japan was closed, the Netherland was
the only Western country which was allowed to trade with Japan.

低地にあるオランダ(「オランダ」のオランダ語Nederlandは「低い地」の意)の光景を特徴付ける運河が縦横に走り、夜は光の演出が美しい。次の写真下:オランダ風世界に紛れ込んだベニス風ゴンドラ第45話で詳しくご紹介した)。本物は2席のみの細い船体を人間1名で漕ぐが、それではテーマパーク用には輸送力不足なので10名は詰め込めそうなビニール張りロングシートになった。最早人力では無理で、エンジンも煙突も見えないので電動だろう。

クラシックカー風の自動車は、昔の欧州を演出する小道具でもある。NLはNederlandの略で同国の識別記号だ。国境が接し合う欧州では、かつて車両後部に登録国の国別識別記号(ドイツはD、英国はGB、フランスはF等)を記した楕円形プレート又はシールを付けていたが、漸次導入されたEU共通規格のユーロプレートでは左端にEU旗付青帯が入り、そこに国別識別記号も組み込む形で一本化された。その結果、欧州の道路の風物詩だった楕円形登録国表示も懐古の世界に入った。



左下:豊臣秀吉に処刑された切支丹を称える大浦天主堂
Nagasaki is also famous for old Christian churches. Bottom right:
The hall of the Nagasaki Airport resembles a Western church.

ハウステンボスから長崎空港まで海路で行くと、洋式帆船が停泊する昔のオランダ風の景色が一瞬で現代日本の風景に変わる。何やら時空を超えた出島のようで、ちょっと面白かった。長崎空港のホール(右下)は切支丹の歴史を伝えるかの如く教会風だった。

 
(令和2年1月 / January 2020)
 
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